白井市の幸水の栽培は日本の三大産地です
現在日本一の梨生産県が千葉県で白井市がその頂点にあって、白井の梨は質の上でもブランド品としての評価が定着しています。
日本梨で良く知られる品種には二十世紀、幸水、豊水、新高などがありますが、これらを総合した出荷規模(平成16年度統計)で関東の白井市、東北の福島市、山陰の鳥取市、九州の伊万里市が国内生産地の四天王です。
ただし、二十世紀梨は主に鳥取で特化して作られていて、最も栽培が普及している幸水で数えるなら、白井市、福島市、伊万里市が日本の三大産地となります。
白井市の梨栽培は、平成27年現在、栽培経営体数205、栽培面積259㏊(県内第1位)となっており、全国でも有数の産地です。
主な品種は、幸水・豊水・あきづき・新高などがあります。
白井市の梨栽培の歴史は明治30年代から行われています
千葉県はすでに江戸時代から知られる梨の産地で、市川や船橋が先進地でした。
明治時代から東京近郊の市川や船橋の市街化が進み、梨の栽培地は徐々に郊外へとシフトしてゆきました。
白井市の梨栽培の歴史は、1905年(明治38)頃すでに栽培されていて、旧鎌ヶ谷村から移住してきた、白井木戸新田の浅海久太郎や笠川元吉らが始めたと伝えられています。
当時の品種は、新中、早生赤、長十郎などです。
大正末期のころ、食味と棚持ちが良いことから白井の長十郎が軌道に乗り始め、戦前までは盛況を極めましたが、戦中・戦後の食糧不足の時代に入り、一時衰退しています。
日本経済が復興し始めた昭和30年頃から白井の梨が再び見直され、現在のような一大産地となりました。
昭和58年7月27日には降ひょうにより、梨の実だけではなく樹木も傷つき大きな被害に見舞われましたが、その後復興をとげています。
果樹栽培に適した土壌から白井市の梨栽培が大きな魅力に
もともと白井は田地が狭く、江戸時代から内陸に開かれてきた場所(新田)も水が乏しく、畑作より人工林の営みよる林業を発達させ、植樹に向いた広大な土壌が生み出されてきました。
そのため果樹栽培にも適したうえ、「米の3倍の手間暇もかかるが3倍の実入りもある」と言うように、まだ野菜が作りにくかった白井には、梨栽培が経済的に大きな魅力となったようです。
白井の梨農家さんと梨の歴史
梨作り後発地の白井がこれほどの産地になったのには歴史的な要因もありました。
戦争中、食料統制で果樹を伐採して畑地転換することを余儀なくされて名産地が潰れてゆく中で、当時の白井村時代に官民一体となり1940年(昭和15)に梨業組合を結成して梨を軍用に供出するなどの苦心で、戦後まで梨樹や栽培道具を守り通しました。
永年作物の梨は地主でないと作り難いものでしたが、戦後白井基地(現海上自衛隊下総航空基地)へアメリカ軍が進駐したこともあり、白井村が千葉県最初の農地解放指定を受けて解放が行われた結果、いち早く多くの農民が梨作りに取り組める機会を得ることができました。
1949年(昭和24)頃すでに梨を特産としていたのは県北では白井村、市川町、阿蘇村(現八千代市)だけですが、白井ではまだこの頃進駐軍の要求があって麦の作付けも多く、畑地の2/3余りを占めていました。
しかし、1959年(昭和34)の白井基地返還やアメリカの余剰穀物輸入開始で麦栽培からの脱却を迫られます。同年第10回全国梨研究大会が白井村を会場に開催されましたが、その後大半の畑が梨畑へ変わってゆきました。
5年ごとに面積が倍々化する勢いで1980年代以降には結果樹面積(収穫予定して実をつけさせた栽培面積)においては県内最大を誇る様にまでなりました。
新品種の栽培技術開発には白井の梨農家さんの努力と貢献があります
記録には残されていないことながら、新品種の栽培技術開発で白井の梨農家の努力や貢献が非常にあり、普及したことも聞き取り調査で判明しています。
戦後の幸水などの品種はそれまでの梨に比べ栽培が難しく、失敗した梨の産地が多かったと言い、白井では梨業組合の中に研究部を置いたり、個々の熱意で実験と研究が行われ、土壌菌対策や新たな受粉技術を研究開発したりして国県試験場にも提供したと言います。
様々な技術が白井で開発蓄積されてきた結果が現在千葉県の果樹栽培をリードしている理由とも言えます。